■フタバの歴史・第5話

■フタバの歴史・第5話(2004年07月27日の日記より)

 昭和56年8月。この1ヵ月僕は休みなど取らずに、ひたすら生徒募集をした。集まったのは26人きり。毎月30万円くらいの収入しかない。生徒が増えたり減ったりの連続。収入がない辛さは本当に涙がでた。持ち出しが続いた。それもなくなると、銀行から借金をした。100万円。よく貸してくれたな…と思う。

 その時の同僚はもういない。
一人は昭和59年2月に塾をやめてもらい、もう一人は昭和63年3月一杯で東京の実家の仕事を継ぐため退職された。もう一人は平成6年か7年に退職された。元気でやっているだろうか…

 昭和56年~59年が一番苦しかったと思う。
弁当も取れず、保険も未加入。みんな国保だった。給料は15万円。それも遅配、遅配の連続だった。
 中古のタウンエースを25万円の12回月賦で買った。僕のアコードを下取りに出して日産のチェリーバネット10人乗りを月賦で買った。印刷機はかなりオンボロのゲーハーを2万円くらいで買った。ないない尽くしみたいもんだった。

 その頃を知っている職員が一人いる。当時、中学生で塾生だった『ミユキ先生』だ。彼女は昭和58年4月から61年3月までの塾を生徒(中学生)として知っている。

 彼女は沼津高専の時から、プリントの清書のバイトで塾に出入りしていた。当時から、家庭教師と塾のバイトでバイクもかったし、車の免許も全部自分で出していた。高専の1年から4年までバイトは続いた。時給500円で真面目にやってくれていた。

ミユキ先生はこうして専属への階段を登ってきたのだ!

なんだかんだと21年間分の塾を知っているのだ。すごいでしょ?この辺がうちの塾の強さだと思う。

 昭和61年5月に僕は結婚し、昭和61年9月に『シシド先生』が専属として入社してきた。彼は柔道2段。中学校教師の奥方との二人暮しだ。塾は若いだけでは物足りない。中学生、高校生の父母面談はだいたいシシド先生が担当している。僕もやるが。

シシド先生は、影の塾長である。

大手が来ようが鉄壁の守りで固めていますよ…

この頃には生徒数は150名くらいになっていた。昭和62年9月に本部校を取得する契約を結んだ。
しかしこれがなかなか、したたかな相手で5500万円が話を進める度に上げられて結局…

            …続きます…



© Rakuten Group, Inc.